NO.7

前回NO.6では中途半端な終了の仕方で申し訳ございませんでした。震災後の仕事増により倒産の危機を脱する事が出来ました。しかし今回の新型コロナは、全ての企業の衰退で零細企業(私)は、大変苦しいです(倒産・破産が頭をよぎります)でも同志よ頑張りましょう!「返済に勝る投資は、無い」愚痴を止め本来のブログに戻ります。

 

我々家族4人は、小学時代 母方の祖母・叔父3人 合計8人で過ごしておりました。

井戸が2か所、庭では鶏小屋、イチジクの木が2本・風呂を沸かす為の古材木置き場、裏庭には風呂場1棟・蔵1棟・池が有りました。(大阪市内のど真ん中で)

仲良く生活しており楽しかったです。風呂を沸かす為に叔父・私たちで日曜日になれば建築業の知り合いからのもらい物の古材木を鉈(大小)で薪割が恒例でした。高校時代まで風呂は、薪で沸かしておりました。おかげで、足腰の強化・着火剤を使用しなくとも火を付ける技は、を学びました。(今でもBBQでは、新聞紙&枯れ枝を使い炭にひを付けれます)又皆で鍋をする際は、それまで卵を食べさしてくれていた鶏を父・叔父が庭でさばいていました。残酷ですが、子供が見ている前で首を落し逆さまにし血抜きしグラグラと湧いたお湯の中に入れ羽根を取りさばき、食しておりました。

毎年12月30日は全員で餅つき大会。前日にもち米を研ぎ当日朝早くから簡易の窯(丈夫な石油缶を叔父が加工)に釜を乗せお湯を沸かしその上に一定量の米(量は?)の入った蒸篭を2段か3段積み上げ蒸し(蒸しあがり時間は父が指示)石製の臼に入れ杵で内出来上がり。それを、女性が主で(親戚も参加)丸もちなどに仕上げ。大阪弁で「いや しんぼ」で出来上がりを醤油・黄粉に付け食しました(おいしかったー)

[何故30日にするかと言えば、29日は苦(9)の餅で縁起が悪いとされていたから]

終了後は1年の収めで宴会(忘年会のよう)で大人は、へべれけになっていました。

そして31日は、大掃除母は、遅くまで正月料理を重箱にパンパンになるまで作っておりました。そして12時になると年越しそばを食し正月に着る新品の下着・服を枕元に置き就寝

 

 

NO.6

長く休ませて頂きました。コロナウイルス蔓延の為 自営業をしておりますので 打撃を受け 資金繰り及び事業(本業以外の事業)の為奔走しております。親父の事業を継承いて。親父の仕事を手伝いしだした1978年頃オイルショック、1991年頃バブル崩壊、1995年阪神淡路大震災 をその都度乗り越えてきましたが、今回のコロナ不況は、創造を絶する大打撃です。私も年齢的にも「なにくそ」の精神で立ち向かってきました。オイルショックの時は、時間が余りすぎたので「一般毒物劇物取扱者」「商業簿記3級」の資格を取得次なるステップを期待しました。バブル時は、バブルの恩恵は受けませんでしたが、何とか乗り切りました。阪神淡路大震災時は、業績悪化の為3月には、倒産を覚悟しておりましたが、お客様の7割が阪神間でしたので予想より早く破産確実でした。「座して死すより戦い死す」の精神で何とか5万円を作り震災(1月17日)の翌日ミニバイクを購入(バイク購入に殺到していましたので結果的には中古を新品として騙され購入)

3日目にそのバイクで4時起きで阪神間のお客様を回りました(当時西宮市に居住)11階に住んでおりましたので自宅は、靴を履いて片付けておりましたが、先ずはこの目でお客様の様子を確認する為水だけを積んで西宮から須磨まで約10件をくまなく回りました。創造を絶する光景を見ながらバイクを走らせ、自分の行動は、間違っていない事に気付き「行動無しでもバンザイ、行動してもバンザイ」後で後悔しても仕方ないので週2日阪神間をお客様回りをする事にしました。お客様の大多数は施設が使えないほどの破損でした。同業者のほとんどは、ニュースで見る光景で阪神間は、暫くは来ませんでいた。3回みの営業でワンボックス(タウンエース)に一杯の商品を納入になりました。後3年間2日に1度4時起きで納品に向かいました(主要道路許可車のみの通行で時間がかかりました)

NO.5

今日は、時代背景を少し外れるかもしれません(許して)。6月14日70歳になりました。ブログデビューした時が69歳(otusan-69)なかなかブログは、難しい。

今回は、父方の紹介しようか、神戸市内(離宮)で祖父は、職業軍人、祖母は、小さな料亭(祖父の顔で客の大半は、軍人が来ていたようでした。馬に跨った写真でしか祖父(昭和11年5月19日48歳で死去)を知る事は、出来ませんが、祖母は昭和31年5月3日64歳で死去)、朧ながら思い出すことが出来ます。その間に生まれた父は男2人女2人の二男として(大正10年3月5日)生まれました。神戸の私学高校を出て、川崎航空機㈱就職後昭和18年入隊(二等兵)其の後上等兵班長そして軍曹と消してルソン島に上陸し、20年戦闘停止・武装解除21年12月8日名古屋港着(召集解除)その後 昭和23年9月28日母と結婚[自伝より]

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祖母

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父の軍隊時代

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父軍隊時代2

 

NO.4

昭和29年 まだまだ世間は、私学に通わせる程裕福(私の家庭も)ではない中、近くのミッション系の幼稚園に通う事になりました。よくお金がらみの夫婦喧嘩を寝たふりをして聞いていましたので。何故?居候の身分で、良いの?(幼子ですが、ませていましたので)と思っておりました。後に解りましたが、祖母の半命令気味の意見が通りました。(見栄?)幼稚園での思い出は、余りありません3年保育で約10人位同園児で私だけが徒歩通園(近いので)他は、往復バス通園でした。又登下校の際のそれぞれのお祈り・先生は、ベレー姿のシスターに違和感が有りなじめませんでした。嫌々の3年間でしたので、嫌な園児でした。嫌々な3年間を無事過ごし昭和32年系列の小学校に進みました。この進学も母&祖母の考えでした。母の兄弟・母方の親族は、殆ど公立小学校・中学校・高校は通学しておりませんでしたので二人の希望で私・弟も公立に行くことは有りませんでした。私が、母には、まったく頭が上がらなくなったのは、小学校6年間い1日も休まず4時間目の終了まじかに温かい手作り弁当を持ってくれました。

私が極度の病弱(腸炎で2度死にかけておりました)でしたので、冷えた食べ物でお腹を壊す事が多々有りましたので!この時期。やはり金銭的に困ってきましたので(父は地方金融機関勤めでしたが、夜の街が好きでした)母が夜の仕事につきました(ホステス)しかし、それでも小学校入学と同時に厄介な事が始まりました。母の教育ママゴン化です。帰宅すれば宿題後母が買ってきたドリル(国語・算数・理化の問題集)の勉強が始まります。仕事から帰ってきた母は、すべての問題集の答え合わせをして点数を付けていました。子供心には、母が夜の仕事は嫌でしたが頑張っている母を軽蔑したり嫌がる顔を見せる事だけはするまいと思っておりました。この時代に夜の仕事をする母に対しては世間は影では色々噂をしておりました(私に直接言う人もいました)このころから人見知りをし友達作りに消極的になりました。

NO.3

先ずは、昭和28年前後の風景・生活環境をお話しします。

家を出ると舗装されていない道路(3~4m位)を渡ると整備されていない公園、家の塀沿いには手作りのコールタール出塗られた大き目のゴミ箱 まるで映画「三丁目の夕日」の様なセピアいろの世界でした。

便所は、汲み取り式で通称「ぽっとん便所」ふき取紙は、同じ大きさに切られた新聞紙

水道が無いのでつりさげ式の容器でてを洗う。定期的に市の委託業者が来て柄杓で汲み取り天秤棒(両端に桶をぶら下げ方に担いで運搬する道具)に吊るされた桶に入れ道路上に止めた車の荷台の容器に入れて運んでくれていました。その後は、バキュームカーで吸い込みしょりをして頂いておりました。処理の後は、ほのかに汚物の臭いが漂っておりました。転々と残る汚物をいどの水出流しておりました。前の公園では、数少ない近所の子達と翌ビー玉遊び(目玉落し・三角出し・天地・ビー玉当て等)凧揚げ・駒回し・釘刺し等に興じておりました。紙芝居いもそこでした。

家は、親子4人(父・母・私・2才下の弟)母方の土地に平屋8畳6畳2畳(台所)を建てさせてもらっていました。祖母の土地建物には、祖母叔父3人が、12畳の座敷・応接間・祖母&叔父3人の部屋・8畳の台所・蔵 離れには、風呂・井戸が2個・裏庭には、池・前には鶏小屋・母屋の横にはおそらく車が10台以上のスペースの土地が有りました。つまり我々家族は居候家族でした(家賃無)母は気のきつい人でしたので

居候ではなく姉として一緒に住んでやってる的な態度でした。(少しはきを使えよと思っておりました)父・弟も全くきを使うことなくいました(不思議)。祖母の何故大きいか、戦前より地主で前の公園を含み野球場約3個分位の土地を所有し借家業を営んでいたとの事。戦争でその全てを焼失し収入が無くなりとちを切り売りし祖母(御嬢さん育ち)が1人で5人(女2男3人)を育てました。過去の家柄を知っている人達は、我々にも一目置いて接して居ましたので何か勘違いした家族一同でした。(私も○○のボンでした)

 

 

NO,2

御無沙汰です!!コロナで自営業の為大変で 心に余裕が無く記事を書く元気をなくしておりました。

気を取り直し 元気を奮い立たし おっさんの昭和を案内させて頂きます。

大阪城の近くで1950年二男(長男は誕生後病死)として生まれ育ちました。

生まれた時から病弱で何度も入院し一度は、死にかけたとの事。其の為小学校を出るまで小遣いは、一銭ももらえませんでした。何故なら、買い食い(駄菓子等)をすると即お腹を壊す状態でした。おやつは、親から与えられ管理されていました。

辛かったのは、家の前の公園での紙芝居でした。紙芝居では、お金(幾らかは覚えていませんが)を払い余り衛生的でない食品or?(他の商品か忘れました)小遣い無しの為紙芝居を遠目・横目でしか見れませんでした(ただ見厳禁でしたので)

一度どうしてもお金が欲しくて祖母の財布から黙って頂き紙芝居を見に行きました。お菓子の中から一番不衛生な酢昆布(糸を引いた)を選び食し 結果やはり激しい下痢になり親の逆鱗に触れました。

1953年3年保育で近くのカトリックミッション系幼稚園に入園しました。

家庭は、裕福では有りませんでしたが、教育ママゴンでしたので誰も逆らえませんでいた。近所では誰もその幼稚園に入園者は、いませんでしたので 誰も友達は、いませんでしたので 幼稚園児・弟だけが遊び仲間でした。

*1953年~1956年は物資・食品は、お金さえあれば何でも手に入りました。

欲しい物が全て手に入りませんでしたので、お金持ちと違い翌我慢をしておりました。

例えば見舞い品でも 果物(今と違いリンゴ&バナナ&桃)でした。

初めまして、1950年生まれのおっさんデビューです。手さぐり状態です。私が過ごした昭和の体験談を記事にします。親が苦労した後の成長期に過ごした日々・遊び・学習・大阪の変化・正直にお伝えします。きっかけは、以前から持っていた怒りです。酒場・職場で聞かれる 私より4~5才上の御爺さんが若者に対して「俺らが、昭和を築いた・苦労した・から今が有る」と自慢している。違う!戦後昭和を築いてくれたのは我々の親です。又「何もなかった」嘘です。お金が有れば、有りました。そういった間違った自慢話を聞くたび、腹が立つのです。曾婆さん・婆さん・軍曹であった父・内地で頑張った母に聞いた話を出来るだけ思いだし伝えられるよう頑張ります。

宜しくお願い致します。