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昭和29年 まだまだ世間は、私学に通わせる程裕福(私の家庭も)ではない中、近くのミッション系の幼稚園に通う事になりました。よくお金がらみの夫婦喧嘩を寝たふりをして聞いていましたので。何故?居候の身分で、良いの?(幼子ですが、ませていましたので)と思っておりました。後に解りましたが、祖母の半命令気味の意見が通りました。(見栄?)幼稚園での思い出は、余りありません3年保育で約10人位同園児で私だけが徒歩通園(近いので)他は、往復バス通園でした。又登下校の際のそれぞれのお祈り・先生は、ベレー姿のシスターに違和感が有りなじめませんでした。嫌々の3年間でしたので、嫌な園児でした。嫌々な3年間を無事過ごし昭和32年系列の小学校に進みました。この進学も母&祖母の考えでした。母の兄弟・母方の親族は、殆ど公立小学校・中学校・高校は通学しておりませんでしたので二人の希望で私・弟も公立に行くことは有りませんでした。私が、母には、まったく頭が上がらなくなったのは、小学校6年間い1日も休まず4時間目の終了まじかに温かい手作り弁当を持ってくれました。

私が極度の病弱(腸炎で2度死にかけておりました)でしたので、冷えた食べ物でお腹を壊す事が多々有りましたので!この時期。やはり金銭的に困ってきましたので(父は地方金融機関勤めでしたが、夜の街が好きでした)母が夜の仕事につきました(ホステス)しかし、それでも小学校入学と同時に厄介な事が始まりました。母の教育ママゴン化です。帰宅すれば宿題後母が買ってきたドリル(国語・算数・理化の問題集)の勉強が始まります。仕事から帰ってきた母は、すべての問題集の答え合わせをして点数を付けていました。子供心には、母が夜の仕事は嫌でしたが頑張っている母を軽蔑したり嫌がる顔を見せる事だけはするまいと思っておりました。この時代に夜の仕事をする母に対しては世間は影では色々噂をしておりました(私に直接言う人もいました)このころから人見知りをし友達作りに消極的になりました。