NO.3

先ずは、昭和28年前後の風景・生活環境をお話しします。

家を出ると舗装されていない道路(3~4m位)を渡ると整備されていない公園、家の塀沿いには手作りのコールタール出塗られた大き目のゴミ箱 まるで映画「三丁目の夕日」の様なセピアいろの世界でした。

便所は、汲み取り式で通称「ぽっとん便所」ふき取紙は、同じ大きさに切られた新聞紙

水道が無いのでつりさげ式の容器でてを洗う。定期的に市の委託業者が来て柄杓で汲み取り天秤棒(両端に桶をぶら下げ方に担いで運搬する道具)に吊るされた桶に入れ道路上に止めた車の荷台の容器に入れて運んでくれていました。その後は、バキュームカーで吸い込みしょりをして頂いておりました。処理の後は、ほのかに汚物の臭いが漂っておりました。転々と残る汚物をいどの水出流しておりました。前の公園では、数少ない近所の子達と翌ビー玉遊び(目玉落し・三角出し・天地・ビー玉当て等)凧揚げ・駒回し・釘刺し等に興じておりました。紙芝居いもそこでした。

家は、親子4人(父・母・私・2才下の弟)母方の土地に平屋8畳6畳2畳(台所)を建てさせてもらっていました。祖母の土地建物には、祖母叔父3人が、12畳の座敷・応接間・祖母&叔父3人の部屋・8畳の台所・蔵 離れには、風呂・井戸が2個・裏庭には、池・前には鶏小屋・母屋の横にはおそらく車が10台以上のスペースの土地が有りました。つまり我々家族は居候家族でした(家賃無)母は気のきつい人でしたので

居候ではなく姉として一緒に住んでやってる的な態度でした。(少しはきを使えよと思っておりました)父・弟も全くきを使うことなくいました(不思議)。祖母の何故大きいか、戦前より地主で前の公園を含み野球場約3個分位の土地を所有し借家業を営んでいたとの事。戦争でその全てを焼失し収入が無くなりとちを切り売りし祖母(御嬢さん育ち)が1人で5人(女2男3人)を育てました。過去の家柄を知っている人達は、我々にも一目置いて接して居ましたので何か勘違いした家族一同でした。(私も○○のボンでした)